藁に包まれた納豆と木の器

発酵と腐敗。どちらも「菌が増えて、有機物が分解される」という点では同じ現象です。にもかかわらず、一方は食文化として大切にされ、もう一方は避けたいものとして扱われます。この二つを分けている線は、どこにあるのでしょうか。検査室で日々菌を数えていると、その線が思ったより人間の側の都合で引かれていることに気づきます。納豆菌を手がかりに、発酵と腐敗の境目を見ていきます。

目次

発酵と腐敗に、微生物学的な境界線はない

発酵と腐敗は、微生物学のうえではきれいに分けられません。どちらも微生物が増え、有機物を分解し、別の物質へと変えていくという、まったく同じ現象だからです。

検査室にも、この二つを区別する検査項目はありません。私たちが測るのは菌数であり、菌の種類であって、「これは発酵です」「これは腐敗です」と判定を下す試験は存在しないのです。

強いていえば、悪臭のもとになるアミン類やアンモニアが多く生じる分解を腐敗と呼ぶ、という整理の仕方はあります。ただしこれも、そのにおいを不快と感じる人間の感覚が基準になっている点は変わりません。

では何が分けているのか。答えは拍子抜けするほど単純で、その結果が人間にとって都合がよいかどうか、それだけです。大豆が枯草菌に分解されて糸を引けば納豆と呼ばれ、同じ大豆が別の菌に分解されて異臭を放てば腐敗と呼ばれる。線を引いているのは菌ではなく、私たちの側です。

この見方は、夏の食中毒の話とも地続きです。菌の性質そのものに善悪はなく、どこで、何を相手に、どれだけ増えたかで意味が変わります。

納豆菌 ― 枯草菌が「発酵」の側に立つとき

その好例が納豆菌です。納豆菌は分類上、枯草菌Bacillus subtilis)の一種で、正式には Bacillus subtilis var. natto と呼ばれます。もともと稲わらや土のなかにいる、ごくありふれた菌です。

伝統的な製法では、煮た大豆を稲わらで包みました。わらにいた枯草菌が大豆で増え、納豆になる。菌を「加えた」というより、すでにそこにいた菌に場所を用意したという表現のほうが近いかもしれません。

枯草菌には芽胞をつくるという特徴があります。熱や乾燥に耐える殻をまとうため、煮沸してもわらのなかの枯草菌は生き残ります。大豆を煮る工程は、豆を柔らかくすると同時に、枯草菌以外の菌を減らす工程でもあったわけです。結果として、枯草菌がほぼ独占的に増えられる状態がつくられます。

納豆のあのねばりも、枯草菌が生み出すポリグルタミン酸という物質によるものです。菌が増えるかどうかだけでなく、その菌が何をつくるかまでが、食品の性格を決めています。

同じ「芽胞をつくる」という性質が、作り置きのカレーではウェルシュ菌の悩みになり、納豆では発酵の主役になる。菌の側は何も変わっていないのに、置かれた文脈で評価が反転します。

「先に増える」ことが、腐敗を遠ざけている

納豆の例が示しているのは、発酵食品の要が「目的の菌が先に、圧倒的に増える」ことにあるという点です。場所と栄養を先に占められてしまえば、あとから来た菌は増えにくくなります。

さらに、増えた菌は環境そのものを変えていきます。乳酸菌は乳酸を出して周囲を酸性に傾け、酵母はアルコールを生みます。多くの腐敗菌や食中毒菌は、酸性やアルコールのある環境では増えにくい。発酵食品が比較的日持ちするのは、菌が自分の住みやすい環境をつくったことの副産物なのです。

塩分もここに加わります。漬物や味噌の塩は、味つけであると同時に、水分活性を下げて増えられる菌を絞り込む役割を持っています。乳酸菌は比較的塩に強く、だからこそ塩のなかで主役になれます。

ヨーグルトやチーズも同じ構図です。乳酸菌が乳糖を分解して乳酸をつくり、酸性に傾いた環境ではほかの菌が増えにくくなる。牛乳をそのまま置いておけば腐敗と呼ばれる変化が、乳酸菌に主導権を渡すと発酵と呼ばれるようになります。

ちなみに、菌が酸をつくって環境を弱酸性に保つという仕組みは、私たちの腸のなかでも起きています。短鎖脂肪酸がまさにそれです。発酵食品の樽のなかと腸のなかで、似たことが起きているわけです。

それでも発酵食品は傷む ― 夏のぬか床が難しい理由

とはいえ、発酵食品だから傷まない、というわけではありません。夏にぬか床の管理が難しくなるのは、まさにこのためです。

温度が上がれば乳酸菌の活動も速くなりますが、同時に、そうでない菌の活動も速くなります。前の記事で触れたとおり、条件がそろえば細菌はおよそ20分に1回のペースで分裂します。この加速は、目的の菌にも、望まない菌にも等しく起こります。

夏にぬか床をかき混ぜる回数を増やすのは、酸素の量を調整して菌のバランスをとるためです。冷蔵庫に入れるのは、発酵をゆるめると同時に、望まない菌の増殖もゆるめるため。発酵の管理とは、菌を育てることであると同時に、増えすぎを抑えることでもあります。

においや色がいつもと違うと感じたときは、無理に食べずに手放す。これも、線を引いているのが人間の側だからこそ必要な判断です。

発酵食品を、腸の側から選ぶ

発酵食品の価値は、菌そのものだけにあるのではありません。菌が時間をかけてつくり変えた代謝産物にも、発酵の意味があります。この点は発酵という、いちばん古い健康の知恵でも触れました。

菌が生み出した有用成分に注目する考え方は、バイオジェニックスと呼ばれます。生きた菌を届けることを重視するプロバイオティクスとは、着眼点が異なります。

納豆をひとパック食べるとき、私たちは菌を食べていると同時に、菌が数日かけてつくったものを食べています。発酵と腐敗を分ける線が人間の側にあるのなら、その線の内側にあるものを、もう少し意識して選んでみてもいいのかもしれません。

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