よく噛んで食べなさい、と子どものころに言われた方は多いと思います。ただ、なぜそうしたほうがいいのかまでは、あまり説明されないまま来ているのではないでしょうか。行儀の問題なのか、消化にいいという話なのか。ここでは、噛むという動作が腸に届くまでに何をしているのかを、菌の側から見てみます。腸内細菌にとって、噛むことは材料の下ごしらえにあたります。
噛む回数は、行儀の話だけではありません
急いで食べた日に、あとで胃のあたりが重く感じることがあります。同じものを落ち着いて食べた日には、そうならない。噛む回数が違うと、あとの感じ方が変わるというのは、多くの方が経験しているところだと思います。
ただ、その理由となると、意外と語られていません。よく噛むと満腹感が出る、という説明はよく見かけますが、それは食べる量の話です。噛んだものがそのあとどうなるのか、腸に届いてから何が変わるのかまでは、あまり扱われていません。
ここではその部分を見ていきます。結論から言えば、噛むことで変わるのは、腸内細菌が受け取る材料の状態です。食べたものは、口を出たあとに形が変わることはあっても、砕き直されることはありません。口でつけた差は、そのまま最後まで残ります。
口は、最初の消化器官です
消化というと胃や腸を思い浮かべますが、口の中でも消化は始まっています。仕事は二つあります。
一つは、物理的に砕くことです。歯で噛み切り、すりつぶして、粒を小さくする。これは単純な作業に見えますが、あとの工程すべてに効いてきます。ここで小さくできなかったものは、後工程でも大きいままだからです。
もう一つは、唾液を混ぜることです。唾液にはアミラーゼという酵素が含まれていて、デンプンを分解し始めます。ご飯をよく噛んでいると甘く感じることがありますが、あれはデンプンが糖に分解されている途中の味です。
唾液の役目はそれだけではありません。砕いたものをまとめて飲み込みやすい形にし、口の中を洗い流す働きもあります。そして唾液は、噛むという動作によって出てきます。噛む回数が少なければ、混ざる唾液も少なくなります。砕くことと唾液を混ぜることは、別々の仕事のようでいて、同じ動作から出てきています。
この二つは、噛む回数が少ないと、どちらも途中で終わります。粒は大きいまま、唾液も混ざりきらないまま、先へ送られることになります。
もっとも、胃や小腸にも消化の仕組みはありますから、口で終わらなかった分がすべて無駄になるわけではありません。ただし胃や小腸が担うのは化学的な分解で、大きな塊を砕き直す働きはありません。物理的に小さくする役目は、口がほぼ一手に引き受けています。
粒の大きさが、菌の取り分を変えます
では、粒が大きいまま先へ進むと何が起きるのでしょうか。
腸内細菌は、食べ物の塊を丸ごと取り込むわけではありません。表面から少しずつ分解していきます。ですから、同じ量の食材でも、細かく砕けているほど菌が触れられる面が広くなります。逆に大きな塊のままだと、内側は手つかずのまま通過していきます。
食物繊維はこの影響を受けやすい材料です。もともと人の酵素では分解されにくく、大腸まで届いてから菌に使われるものなので、届いたときの状態がそのまま結果に響きます。糖や脂質のように途中で吸収されてしまう成分と違い、繊維は最後まで形を保ったまま運ばれます。せっかく繊維を意識して摂っていても、粒が粗ければ使われる量は変わります。
なお、細かければ細かいほどよい、という話ではありません。すりつぶして液状にすれば最良かというと、そうではなく、噛みごたえがあることで唾液が出て、食べる速さも落ちます。粒の細かさだけを取り出して極端にしても、他の要素が崩れます。
これは、材料の側をいくら整えても、受け取る側の条件が揃わなければ結果が出ない、という話の一部です。噛むことは、その条件のうち自分で調整できる数少ないものです。
早く食べると、食べる量も変わります
噛む回数の話をすると、必ず食べる速さの話が混ざってきます。厳密には別のことですが、実際には連動します。
食べ始めてから満腹の信号が届くまでには、いくらか時間がかかります。速く食べると、その信号が届く前に食べ終わってしまうので、結果として量が増えます。よく噛むと食べ過ぎないと言われるのは、噛むこと自体の働きというより、時間がかかることの副産物です。
つまり、噛む回数を増やすと、二つのことが同時に起きています。材料が細かくなることと、食べる時間が延びること。この二つは別々の経路ですが、どちらも結果に関わります。
この記事で扱っているのは前者のほうです。量の話は本人の意思や生活のペースに左右されますが、粒を細かくするという働きは、噛んだ分だけ確実に進みます。
回数を数えるより、固いものを一つ
では実際にどうするか。一口三十回、という数え方をご存じの方も多いと思います。ただ、これを毎食続けられる方は、あまりいません。
現実的なのは、噛む回数が自然に増える献立にすることです。やわらかいものばかりの食事では、意識しても回数は伸びません。逆に、噛みごたえのあるものが一品あるだけで、食事全体のペースが変わります。根菜、きのこ、海藻、ナッツ。どれも繊維の材料としても働きます。
それから、噛むには歯と口の状態が要ります。歯が痛い、噛み合わせが合わない、口が乾く。こうしたことがあると、意識しても回数は増えません。噛む回数の前に、口そのものの状態が土台になります。
噛むことは、腸に渡す材料の下ごしらえです。手をかけた分だけ菌が使いやすくなる、というだけの単純な話ですが、口の中で終わる工程だと思われがちなところです。腸のことを考えるなら、入口から見ておいて損はありません。